「言っておくけど、今日のぼくは機嫌が悪いんだ。それも極めてね」
「どうやら……そうみたいだね」
こちらの顔を認めるなり、牙琉響也は開口一番にそう言った。
成歩堂の方でも、部屋に入った途端、気が付いてはいた。
何と言うか、彼は見るからに不機嫌そうだ。
意外と、感情を表に出すタイプらしい。
間が悪いのは承知の上だったが……。
「実は、頼みがあるんだよね」
わざわざ、検事局の彼のオフィスまで足を運んだのだ。
手ぶらで引き返す気にもならず、成歩堂は駄目で元々のつもりで、口を開いた。
「コンサートのチケット……だって?」
「そう。良ければ、用意してくれないかな?二枚」
「その為にここへ?」
「そうだよ」
話の内容を聞くと、響也は意外そうに目を見開いた。
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
呆れたように肩を竦める彼に、成歩堂も釣られて肩を竦めた。
「ぼくのムスメが、きみのことを、あろうことか王子様だなんて言っててね……」
「ああ、あのお嬢ちゃんか。それは光栄だね」
「ぼくとしては面白くないんだけどね、少し。でもどうしても行きたいって言うんだ、きみのコンサートに」
「へぇ……。まぁ、女の子なら当然のことかも知れないね」
どうやら本気で言っているらしいことは、彼の爽やかな笑みを見れば解かる。
胡散臭い顔をする成歩堂に、響也は先ほどの不機嫌さなど何処かへ行ってしまったように、にこやかに続けた。
「まぁ、別に用意してあげてもいいけど、タダとはいかないよ」
「ああ……。請求書は王泥喜くん宛てに頼むよ」
「解かってないなぁ、成歩堂龍一」
「……?」
「ぼくのライブのチケットは、すぐ完売してしまうことで有名って、知らなかった?お金を払えば誰もが手に出来るって訳じゃないんだよ」
(そう言う、ものか……)
彼の人気は成歩堂の想像よりも、ずっと凄いらしい。
確かに、みぬきもそんなことを言っていた。
『ガリューウエーブのチケット、中々買えないんだよ、パパ』
その台詞を聞いたから、こうして直接ここにやって来たのだが。
「それは困ったね。どうしたらいいかな」
「ぼくも今それを考えているんだけど。残念ながら何も思いつかないね」
(う……)
そう言われても、大人しく引き下がる訳にはいかない。
ここぞと言う時の諦めの悪さなら、まだ健在だ。
成歩堂はニット帽を被り直しながら、少し考え込むような素振りを見せた。
「そう言えば……。きみ、さっき機嫌が悪いって言っていたよね?良ければ聞かせて貰えないかな」
「あ、ああ……。さっきのか……。歌詞が書けないんだよね、どうしても」
「へぇ……。きみみたいなベテランでも、そんなことがあるのかい?」
素直な感想を漏らすと、響也は至って爽やかな笑顔を見せた。
賛辞を受け取ることには慣れているらしい。
「まぁね……。実は今度の新曲が失恋の歌なんだ」
「失恋……」
「ぼくは失恋したことなんかないから解からないんだ、困ったものだよね。連戦連勝、もてる男って言うのも」
「……へぇ」
今すぐ踵を返して帰りたくなるのを、みぬきの為にぐっと堪える。
けれど、歌詞の製作なんて、はっきり言って成歩堂にはどうにも出来そうにない。
早くも諦め掛けた時、響也が思いついたように口を開いた。
「そうだ。役に立ちそうもないけど、一応参考までに教えてくれないかな?」
「え?」
「成歩堂龍一、どうせ失恋ばかりなあんたの話。もし役に立ったら、特別にチケットを手配してあげるよ」
「……」
(言ってみるものだ……)
失恋ばかりだと決め付けられているのは何と無く不服だが、ここで異議を申し立てても仕方ない。
「そうだなぁ……」
少し考えて、成歩堂は口を開いた。
「失恋て言うのか解からないけど……付き合っていた子に毒を盛られそうになったことがあるよ」
話し終えてから、間違えたかな?と思う。
こんな話が役に立つ訳もないだろう、が・・・。
「何だって?もう一回良いかい?」
「……?」
意外なことに、響也は想像以上に反応を見せて来た。
「ぼくが大学生の時、付き合っていた子だったんだけどね。まぁ、実際にはちょっと違った訳だけど……」
「そ、それで?どうしたんだい?詳しく聞かせて貰えるかな?」
「詳しく、ね。話すとかなり長くなるけど、いいのかな」
「オーケイ。全部聞こうじゃないか。その話をもっと詳しく話すこと、それがチケットを取る条件だよ」
「……本気かい、それ」
「ああ、勿論だよ」
何と無く信じがたくて確認すると、響也は真顔で頷いてみせた。
「けど、ぼくはもう仕事に戻るからね。夜になったらぼくのマンションに来てくれないか」
「きみの……?」
「あんたの狭い事務所で音楽を語らうのはごめんだよ。場所は……ここ。いいかな?」
「了解だよ、牙琉検事」
住所が書かれたメモを受け取って、成歩堂は彼のオフィスを後にした。
本当なら、誰かにおいそれと話すようなことではないけれど、これもみぬきの為だ。
何はともあれ、収穫あり、と言うところだ。
そんな訳で。
意外な成り行きで、成歩堂は初めて、牙琉響也の部屋を訪れることになった。
初めて訪れた彼の部屋は、昼間のオフィスと、そんなに雰囲気の変わらない場所だった。
一言で言えば、「高そう」それに尽きる。
それから、部屋には大音量のロックが掛かっていて、成歩堂はこの状況で普通に会話が出来る彼を、少し尊敬してしまった。
そうして、成歩堂がぽつぽつと過去の話をしている間中、響也はずっと何かを紙に走り書きしたり、ギターを鳴らしてみたり、とても忙しそうにしていた。
時折、手にしたグラスに注いだ、これ又高額そうな酒を美味しそうに飲み干したり。
成歩堂も一度酒を勧められたが、ジュースの方が良いと言って断ると、何だか何とも言えないような顔をされた。
それにしても、こうして牙琉響也と言う男と暢気に話をしているなんて、奇妙な状況だ。
まぁ、きっかけを作ったのは自分の方だが。
それから……。
改めて、彼の顔に目をやると、どうしても思い出してしまうことが成歩堂にはあった。
響也はそんなこちらの都合などお構いなしに、ぶつぶつと独り言を漏らしながら作業に打ち込んでいる。
「きみは……本当に音楽が好きみたいだね」
「ああ、当然だよ」
真面目なのかふざけているのかよく解からない男だけれど。
熱心さは伝わって来て、感心したように呟くと、彼は音楽に関するこだわりを熱っぽい口調で喋り出した。
勿論、成歩堂には殆ど理解出来なかったけれど。
ピアニストとして役に立てそうなことも、どうやら皆無だ。
なので、響也が熱くしゃべっている間中、成歩堂はその内容よりも、彼のくるくる動く表情だけを見ていた。
無意識の内に、どうしても……よく見知った人物を見るような顔になっていたのかも知れない。
羨望のような、憐憫のような。
雰囲気は大分違うけれど、彼はあの、牙琉霧人にそっくりだったから。
弁護士としても、親友としても、特別な意味を持っていた、彼。
そこには、半年で散った過去の恋より、もっと複雑で錯綜する思いがあったのだけど……。
それこそ到底、おいそれと語ることは出来ない話だった。
そんなことを思い巡らしながら、かなりの時間が流れて。
熱っぽく語る響也の口調と、心地良い部屋の温度で、いつもより気分が高揚していたのかも知れない。
何と無く、酒を飲んだ訳でもないのに、酔ったような変な気持ちだった。
ふと……違和感に気付くと、いつの間にか響也の話は終っていた。
大音量で流れていた音楽も、小さくなっている。
あんなに煩いと思っていた音量の変化に気付かなかったことに、成歩堂は少し驚いた。
「……あのさ」
ややして、ぎこちない沈黙を破るように、響也が再び口を開いた。
「……?何だい?」
「さっきから思ってたんだけど……そんな目で、じっと見ないでくれるかな」
「……そんなって、どんな……」
疑問を口にし終わらない内に、突然こちらに向かって伸ばされた響也の指先が、成歩堂の顎を捕まえた。
こう言うことを言うのは本当に小癪だけど。
ぐっと側に寄った彼の顔は、普通の女の子ならすぐに骨抜きにされそうな、妙な色気と言うか、そう言ったものが漂っている。
そんな目で見るなは、こっちの台詞だと、皮肉を零そうとした時。
響也がぽつりと呟いた。
「そうだね……見てると、何か……キスしたくなるような」
(え……)
声を上げる暇もなかった。
「……?!」
次の瞬間には、あの牙琉霧人にそっくりな彼の顔が近付いて、成歩堂の唇を思い切りよく奪っていた。
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