「御剣。テレビ、つけてもいい?」
「ああ、好きにしたらいい」
成歩堂が好奇心で目をいっぱいに満たして御剣を見詰めると、彼は快く頷いた。
御剣の家にあるテレビはとても大きい。
それに、成歩堂の家では見れない色々なテレビ番組を放映していることが多かった。
外国の映画とか、野球とか。
それが何だか物珍しくて、成歩堂は御剣の家に遊びに行くとテレビに夢中になってしまう。
今日も、大きな座り心地の良いソファに腰掛けて、成歩堂は小さく膝を抱えていた。
その間、御剣は何だか難しそうな本を抱えて、成歩堂の隣に腰掛けて、熱心に読みふけっている。
一度、御剣は観ないのかと尋ねると、もう飽きてしまったと言った。
なので、チャンネルを変える権限も成歩堂にある。
リモコンを手にすると、成歩堂は無茶苦茶にチャンネルを切り替えていた。
二、三回、それを繰り返していた時のこと……。
画面には、外国の家の中が映し出されていた。
部屋の明かりは蛍光灯じゃないせいか、何だか薄暗くて、観辛い。
そんな中、目に飛び込んで来たのは、大人の男女二人が何やらきつく抱き合って、深くキスをしているシーンだった。
はだけた衣服やら露出の多い肌が妙に目について、ドキ、とする。
成歩堂はびっくりして、思わずリモコンを落としてしまった。
その音で、御剣がこちらを見る。
同時に、彼の目はテレビの画面の方へも向けられ、視線はそちらに釘付けになった。
自分の目だけに映ったのならともかく、二人で一緒に観てしまったのは、何だかやたらと気まずい。
「け、消すよ。御剣」
「うム、そ、そうだな」
慌てて拾い上げたリモコンでテレビを消したものの。
何だか物凄く気まずくて恥ずかしくて、成歩堂は真っ赤にした顔を膝に埋めた。
今のは、いつも家族や親戚などからされる、頬への軽いキスとは違うような気がする。
何だろう。お互いに絡み付いているように見えた。
「い、今のって……なんか、へ、変だよね?」
沈黙が痛くて、成歩堂はその場を誤魔化してしまおうと、何事もなかったように声を上げた。
当然、物凄く声は引き攣っていたけれど。
対する御剣は、何か考え込むような顔になって、それからあくまで冷静な様子で口を開いた。
「あれは、所謂……恋人同士とか、愛し合っているもの同士の、口付け……だな」
「……あ、あいし……」
面と向かって言われて、カァッと頬が赤くなる。
それに、何だかむず痒いような気持ち悪さがある。
けれど、それ以上に、少年らしい性質の悪い好奇心もあった。
どうやったら、あんな風に……少し変わったキスが出来るのだろう。
「試してみるか、成歩堂」
「え……?」
突然の提案に、成歩堂は大きく目を見開いて御剣を見詰めた。
彼はいつも通りの淡々とした調子で、でも確かにその目に悪戯っぽい光を浮かべて、成歩堂を見詰めていた。
「興味がある、どんなものなのか」
「……そ、そうだね」
確かに、まだしたことない、誰とも。
御剣も、まだないんだろう。
そういうのは男と女ですると言うことは解かっていたけど、御剣が、彼がそう言うなら。
その気持ちの方が成歩堂の中で勝った。
成歩堂がゆっくりと頷いたのを確認して、御剣がぐっと側に身を寄せて来た。
ソファの上で、彼の気配が側に寄って、成歩堂はぎゅっと目を瞑った。
きっと、数秒のことだったのだろうけど、やたらと長く感じた沈黙の後。
「……っ」
ほんの少しだけ、本当に軽く、御剣の唇が触れた。
一瞬だけお互いの唇に温もりを残して、すぐに離れる。
今のは、ついさっき見たキスシーンとは明らかに違うものだったけれど、まだ幼い二人にはそれで十分だった。
御剣の気配が離れてから、成歩堂はゆっくりと目を開けた。
今頃になって、いけないことをしたような不安に襲われる。
「な、何だか、変な気持ちだよ」
「……そうだな」
思わず、軽く手の甲で唇をぬぐうと、御剣はその仕草を眺めながら静かに頷いた。
「けれど、嫌ではなかったな、ぼくは……」
「み、御剣……」
確かに、そうだ。
悪いことをしたような気持ちになって、それで不快感に胸がもやもやしたけれど、決して嫌悪は感じなかった。
彼の態度が堂々としていたので、成歩堂も少しだけ落ち着きを取り戻した。
「ぼ、ぼくもだよ。嫌じゃなかった」
そう言うと、彼は急に真顔になって成歩堂の瞳を覗き込んで来た。
「……成歩堂」
「な、何?」
「これは、誰にも言わない方がいい。きみとぼくだけの、秘密の遊びだ」
「……遊び?」
「誰にも、言わないことだ。きみには出来るな」
「うん。解かったよ、御剣」
成歩堂が頷くと、御剣は少し大人びた笑みを浮かべた。
彼のこの笑顔は、いつも成歩堂を安心させる。
これは、なんでもないこと。
ふざけて、興味本位でしただけ。
罪悪感に似た、もやもやとした気持ちが胸をいっぱいにしたのはほんの一瞬で、御剣の笑顔に、そんなものは全て吹き飛んでしまった。
それよりも、初めて抱えた御剣と二人だけの大きな秘密に、胸が高揚するような異様な感覚を覚えた。
けれど、それは……今は未だ、一晩眠ってしまえばすぐに忘れられる類のものに過ぎなかった。
それから、数日後。
成歩堂は再び御剣の家に遊びに行った。
御剣の家はいつも誰もいなくて、いつ行っても綺麗に整えられていた。
膝を抱えてソファに腰掛けていると、すぐ側に御剣が腰を下した。
どうしてだろうか。その距離に、何故かどきりとした。
いつも通り、テレビもつける気にならない。
まるで、この先の御剣の行為を待っているように。
自分ではそうと気付かなかったけれど、それは彼の行為を促す以外の何物でもなかった。
ややして。
「成歩堂」
「……!」
静かな声に呼ばれて、成歩堂は顔を上げた。
御剣の目と視線が合う。
少し冷めた感じの、子供らしくない目。
「この間のを、又しても……良いだろうか」
「……え」
遠慮がちに尋ねられた内容に、成歩堂は目を見開いた。
この間の……。
彼が指している内容は、一つしかない。
あの、秘密の遊びだ。
あれは、自分と彼が二人でいる時にしか出来ない。
御剣としか、出来ない。
あのちょっとした刺激を、もう一度体験出来る。
断る理由は、成歩堂にはなかった。
二人は顔を寄せて、そっと、軽いキスを交わした。
それから、まるでそれが何かの決まりごとのように。
二人きりになると、必ずこうしてキスをするようになった。
それは酷くスリルがあって、成歩堂はいつもどくどく高鳴る鼓動に押し潰されそうになった。
何だかいけないことをしているような、そんな背徳的な気持ち。
まだその感情の意味など解かるはずもないが、本能的にそれがいけないことなのだと悟っている。
胸の中が重くなるのに、でも、何故か逆らえないような。
今日も又、御剣は近くに身を寄せて、ぎゅっと目を瞑った成歩堂にそっと唇を合わせた。
いつもより、少しだけ長く。
そして、その唇が首筋に移動して、そこにも触れる。
「く、くすぐったいよ、御剣!」
「ム、すまない」
成歩堂が身を捩ると、彼はすぐに顔を離した。
「口だけにするものではないと知って、試してみたのだが」
「そ、そうなんだ……」
「きみも、してみてくれないか」
「う、うん」
言われるまま、成歩堂もそっと屈んで、御剣の首筋に唇をくっ付けてみた。
緊張のあまり吐き出した吐息が掛かってしまって、御剣もすぐに身を捩った。
「なるほど、くすぐったいな」
「うん、何かムズムズするよね。ケムシが落っこちてきたみたいな」
「そうだな」
その時はお互い笑い合って、それだけで済んだのに・・・。
どうしてか、次会ったときも彼は成歩堂の首筋にキスをした。
「御剣、くすぐったいって……」
跳ね除けようとした手が掴まれて、その力の強さに驚く。
「……っ」
何故だか急に、御剣が知らない人のように見えて、成歩堂は怖くなった。
「は、離してくれ、痛いよ!御剣!」
「……!」
少し声を荒げると、御剣はハッとしたようだった。
自分の発した声が酷く怯えていて、成歩堂もその違和感に妙な居心地の悪さを感じた。
「すまない……」
暫くして、そう呟いた御剣は、もういつも通りの彼だった。
その様子に、ホッと胸を撫で下ろす。
「御剣……」
「成歩堂。きみが嫌がるなら、もうしない。約束する」
彼は俯いて、でも、本当に強い口調でそう言った。
怖い思いはもうしたくない。
御剣の言葉に安堵を感じたけれど。
その時、何か胸の奥がぽっかりと空いてしまったような、空虚な気持ちも感じた。
その日から、彼はぱたりと成歩堂に触れて来なくなった。
もう、スリルを楽しむには十分だと思ったのだろうか。
成歩堂も、彼とあの遊びをしなくなって、妙な罪悪感に苛まれることはなくなった。
でも。何かが、物足りないような。
教科書を持って文章を読んでいる間にも、ぼうっとして、あのことばかり考えてしまう。
いけないことは、少し味わうだけ。ちょっとだけ。
でも、刺激的なその味は、すぐに忘れられるものではなくて。
成歩堂は行き場のない感情をひたすら持て余していた。
御剣は、こんな気持ちになったりはしないんだろうか。
そう思って横目で彼を盗み見ても、いつもと変わらない小憎らしいほどに済ました顔があるだけ。
彼はもう、本当に飽きてしまったんだ。
いや。それとも。誰か、他の……?
あの、蜜のように甘くて美味しい秘密の遊びを、他の誰かと……?
そう考えると、何故か今まで以上に胸が苦しくなった。
罪悪感よりも何よりも、それは成歩堂の胸を耐え切れないほどにぎゅっと押し潰した。
いても立ってもいられなくて、成歩堂はその日の放課後、御剣を校舎の裏に呼び出した。
「ではきみは、もう一度したいと言うのだな」
「う、うん……。御剣、きみが、嫌じゃなければだけど」
何処か威圧するような雰囲気を身に纏った御剣に、羞恥を堪えて誘いを掛ける。
それは何とも気恥ずかしいことで、成歩堂は真っ向から彼の目を見ることが出来なかった。
「……」
「み、つるぎ……?」
蚊の鳴くような声で返事を促したのに、彼はそこでは何も言ってくれなかった。
ただ黙って成歩堂の手を掴むと、強引に引いて歩き出した。
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