牙琉弁護士の使いでちょっと出掛けたのはいいけれど、思い切り遅くなってしまって、王泥喜は帰り道を急いでいた。今日、霧人は出張に行くと言っていたから、その前に戻りたかったけれど、仕方ない。
書類だけ事務所に戻して、自分も早く帰ろう。
そんなことを思いながら走り続けて、もう目の前というところまで来たとき、王泥喜はふと、視界に飛び込んできたものに眉根を寄せた。
(ん……?)
何だろう、あれは。
電柱のところに、何だかでかい物体が丸くなっている。物体って言うか、どう見ても人だ。しかも、大人。酔っ払いか何かだろうか。それとも、牙琉弁護士事務所に良からぬ文句でもつけようとする人か。大声にだけは自信があるから、それで撃退出来るだろうか。
一瞬でそんなことが頭の中を巡ったけれど、もう少し近寄ってみると、すぐにそれが見知った人物であることに気付いた。暗闇の中に浮かび上がったのは、水色のニット帽だ。
(あ、あれは…)
前に、牙琉霧人…自分の先生を訪ねてきたことがある。
間違いない。
(成歩堂元弁護士…)
あのときは、かつて憧れだった人の変わりっぷりにかなり驚いたから、間違えるはずない。
そのまま素通りする訳にも行かなくて、王泥喜はそっと彼に向けて足を進めた。
一度ごくりと喉を上下させ、それからぎゅっと拳を握り締める。
「あ、あの…!」
「……?」
大声で呼び掛けると、膝に顔を埋めるようにしていた彼は、反応してこちらを見上げた。
気だるい眼差しが王泥喜の姿を捉えて、ほんの少し惑うように揺れるのに、ドキりとする。
「な、成歩堂さん、ですよね」
「きみは…確か…ええと…」
「王泥喜法介です。先生の事務所の」
「ああ、そうか…」
「何をしてるんですか、こんなとこで。先生なら、今日はもう帰らないですけど」
「そうなんだ?参ったな…」
王泥喜が告げた言葉に、彼ははぁと深い溜息を吐いて、それからゆっくりと立ち上がった。
けれど、次の瞬間にはその体がぐらりとよろめいて、王泥喜は慌てて腕を伸ばした。
「だ、大丈夫ですか?!具合でも?!」
「ああ、大丈夫だよ。ただ、ちょっとお腹が空いて、動けなくなっちゃったんだよね」
「え?」
意外な言葉に、何だか間抜けな声が出てしまった。
何をしているんだろう、この人は。蹲っていたのではなくて、行き倒れてのか。
でも、何だってそんなことに。
「財布の中に一円しかなかったから、牙琉に何か奢って貰おうと思ったんだけど…」
「そ、そうですか」
財布にきっちり一円しかないのもある意味凄い。
王泥喜が感心していると、彼はふっと口元を緩めて笑った。
「優しいよね、牙琉先生はさ」
「……」
気だるい視線に続いて、何だか妙に意味有りげに浮かべられた笑みに、再びドキっとしてしまい、思わず首を打ち振る。
弁護士時代の彼は、絶対にこんな風には笑わなかったと思う。感じるのは違和感の方が強いけれど、放ってなんておけない。霧人の友人と言うこともあるけれど、何より、どんな姿になっていたって成歩堂に違いはない。
王泥喜は少し考えて、思い切って口を開いた。
「あの、俺で良かったら奢りますよ。俺も夕食まだなんです。取りあえず、何か食べに行きましょう」
未だ王泥喜の腕に支えられるようにして立っていた成歩堂は、その言葉に顔を上げ、それから何とも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう。優しいね、きみも」
「い、いえ…」
そりゃ、お腹が減っていて一文もないところで、何か奢ると言われれば誰でも嬉しいだろう。
でも、この笑顔は反則だ。
思わず赤面してしまいそうになって、王泥喜は成歩堂の体を解放すると、くるりと後ろを向いた。
「じゃあ、ちょっと事務所に寄りますから。待っていて下さい」
「うん、解かったよ」
彼の返事を聞いて事務所の扉を潜りながら、王泥喜は何だか妙に胸の内が騒ぐような気がした。
何と言うか、初めてのデートでもしたときみたいに。外で待っているのが成歩堂だと言うだけで、気分は酷く高揚してしまった。
その約一時間後。
「ありがとう。ご馳走さま」
静かにラーメンの丼を置いた成歩堂の顔を、王泥喜は伺うように覗き込んでいた。
「い、いえ。良かったんですか、ラーメンなんかで」
そりゃ、あんまり高額なものをねだられても困るけれど。もっとちゃんとしたところでも良かったのに。
「うん、美味しいよね、ラーメン。いつも行ってるところが休みで残念だったけどね」
「そ、そうですか」
当たり障りのない返答をしながらも、王泥喜はがちがちになっていた。
まずい。緊張で息苦しくなって来た。
それにしても、大の大人がお金がないとか言って電柱の下に座り込んで膝抱えたりして。かなり危ない人と言うか…。いや、でもこの人はあの成歩堂龍一だ。弁護士時代の彼はよく知っている。知っていると言っても、実際に会ったことはなかったけれど。
あんなことがなければ、彼は今牙琉霧人とだって肩を並べる存在だったかも知れないのに。
店を出た後の帰り道、そんなことを考えていると、突然、聞いたことのあるメロディが流れて来た。
「あ、メールかな?」
言いながら、成歩堂がポケットから携帯を取り出した。聴いたことがあるはずだ。これは、子供たちの間で結構有名だった番組、トノサマンのテーマだ。
(トノサマン、好きなのか?)
何だか、意外だ。
でもきっと、もっと意外なことばかりなんだろう。本当の彼がどんな人なのか、全然知らない訳だし。
ほんの少しだけど、霧人が羨ましい。
「あれ…、参ったなぁ…」
思考を遮るように上がった成歩堂の声に、王泥喜ハッと我に返った。
「どうかしたんですか?」
「いや、今日は帰っても一人ってことになりそうだ」
「え?」
「仕事が長引いて、帰って来れないらしいね」
「……!」
(帰って来れない、か)
それはつまり、誰かが彼と一緒に住んでいると言うことだ。
確か、彼はまだ独身だったはずだから、恋人か何かだろうか。
そう思った途端、何だかやたらと落ち着かない気分になって、誤魔化すように声を上げた。
「あ、あの…女の人、ですか?」
「ん?ああ、まぁね」
「そう、ですか…」
立ち入ったことを聞いたかと思ったけれど、彼は案外すんなりと頷いて、それからまた、あの何だか解からない曖昧な笑みを浮かべた。
「可愛い子だよ、凄くね」
「そ、そうですか」
「でも、参ったな。今日は一人か」
「……」
こんなときにのろけなくても。いや、のろけた訳じゃなくて。
ああ、何だか頭の中が混乱している。憧れの人を前にして、完全にあがっているんだろう。
おデコもきっとてかてかに違いない。
でも。
でも、ここまでくれば。
ぐっと拳を握り締めると、王泥喜は彼の背中に声を掛けた。
「あの、成歩堂さん」
「なんだい?」
「良かったら、俺の家に来ませんか」
「え?」
勢いでだけでそこまで言ってしまって、何だか無性に恥ずかしくなった。
殆ど初対面と言ってもいい人なのに、何てことを。
「あ、の、あなたが嫌じゃなければですけど…その…」
しどろもどろになりながら伝えると、彼が笑ったような雰囲気がした。
「本気かい?それ」
「え、ええっ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。いいかい?」
「は、はい!大丈夫です!」
まさか、承諾してもらえるとは思わなかった。
王泥喜は今までで一番の大声を出して、勢い良く首を縦に振った。
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