夕方頃。
手にしていた携帯電話が鳴り響いて、響也は眉を寄せた。
画面に表示された名前は、今あまり目にしたくない人物のものだ。
その人物とは、他でもない、成歩堂龍一。
彼と、あることをきっかけに電話番号まで教え合い、何度か連絡を取り合っているのは、本当に可笑しな話だ。しかも、用件はいつも大したことないのだ。今日もきっと、そうに違いない。
ハァ、と溜息を吐いた後、響也は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、牙琉検事。悪いんだけど、迎えに来てくれないかな』
「……」
電話の内容は、懸念した通り大したことないものだった。
しかも、バカげている。行くはずがないではないか。
「悪いけど、お断りするよ」
乱暴に通話を切るボタンを押して、響也は携帯電話を無造作に放り投げた。
でも、その数十分後。
結局、彼の言った場所へとバイクを走らせる羽目になっている。全く、何でこんなことを、と思いつつも、いつもよりスピードを上げてしまう。
この前、彼が響也の家に飛び込んで来てから、何かが可笑しいのだ。どうも、彼にいいように使われている気がする。いや、問題はそれよりもっと重大だ。嫌なら断ればいいだけのことなのに、それが出来ない。そのことが、何よりも問題なのだ。
「全く……何でぼくが」
お目当ての場所に着き、彼の目の前でバイクを止めると、響也は深々と溜息を吐き出してみせた。
「ぼくはガリューウエーブの大人気ボーカルで、検事局きってのスターだって言うのに、何であんたにこう毎回呼び出されるんだい」
「ぼくの娘はきみの大ファンなんだよ。ガリューウエーブのボーカルって言うのは、ファンにそんなに冷たいのかい」
棘のある言葉を告げても、気怠げな眼差しに見詰められ、到底納得出来ないような屁理屈を述べられると、肩の力が抜けてしまう。
「お嬢ちゃんはともかく、あんたはファンじゃないだろう?全く……」
「でも、ちゃんと来てくれたじゃないか」
「……」
意味有り気な笑みを浮かべてそんなことを言われ、響也はがくりと肩を落とした。
「……あんたのそう言うところ、嫌いだよ」
「はは、そうか……」
「……。何が、可笑しいんだい?」
「いや……。牙琉だったら、こんなときにっこり笑いながら、好きだとか言うんだろうなと思ってね……」
「……」
「きみは意外と素直だよね」
「……そうでもないよ」
不貞腐れたように呟いて、響也はそれきり口を噤んだ。
バイクの後ろに彼を乗せ、狭っ苦しい事務所まで送り届けた後。
そのまま帰ろうとすると、上着の裾がぐいっと握られた。
「何だい?」
「お茶くらい出すよ」
「……?」
「良かったら、寄っていかないかい?」
「あ、ああ……」
思わぬ申し出に、つい首を縦に振ってしまって、後で又少し後悔した。
マジックの小道具が溢れ返った事務所の中。響也は成歩堂が淹れてくれたお茶を飲んでいた。埃っぽいし狭いし最悪なのに、何だか和んでしまうのは、何故だろうか。
「おデコくんとお嬢ちゃんは、いないのかい」
「ああ、みぬきは今日仕事だし、オドロキくんはショーを観に行くって言っていたからなぁ」
きっと、帰りは遅くなるよ。
成歩堂の言葉に、響也は知らず体に緊張が走ったような気がした。
二人きり。嫌でも、数日前のことを思い出してしまう。
あのとき、みぬきから電話が入らなければ、あのジッパーを最後まで引いていたら、どうなっていたんだろう。考えなくても解かる。だからこそ、なるべく避けていたいのに。
彼は何を考えているのか、こうして接触してくる。いや、何も考えていないだけか。
響也が黙り込んでいると、成歩堂龍一は急に何かを思い立ったように顔を上げ、得意げな笑みを浮かべた。
「さてと、ピアノでも弾こうか?牙琉検事」
「……」
どうせ、そんなことだろうと思っていたけれど。
「……やれやれ。音楽のプロのぼくにそんなことを言うなんて、本当にあんたはいい度胸だよ」
溜息混じりに吐き出すと、彼はとぼけたように視線を泳がせた。
「そうかなぁ、牙琉は黙って聞いてくれていたんだけど」
「兄貴は……酷い音は耳に入らないんだよ、きっとね」
「酷いなぁ、これでも前よりは弾けるようになったのに」
「あんたはきっと不器用なんだ、向いていないよ」
「きみは凄いよね、その点」
そこまで言って、一旦言葉を止めると、成歩堂は徐に手を伸ばして響也の手を取った。
突然触れられた熱に、びくりと体が強張るのにもお構いなく、彼は響也の手を引き寄せ、目の前に持ち上げた。
「綺麗な手だよね、きみ」
「……え?」
「器用な人は手が綺麗だって言うけど……本当にその通りかもね……」
「……」
どことなく挑発するような笑み。それに、重ねられた手の平が響也の手の甲を愛撫でもするように撫でていると感じるのは……気のせいだろうか。
でも、きっと……そうではないはずだ。
「成歩堂龍一」
「何だい、牙琉検事」
「あんたさ……その、人を不用意に刺激するクセ、どうにかした方がいいと思うよ」
「……」
何気なく告げた言葉に、彼はふと言葉を止めた。
気だるげだった双眸に、一瞬こちらを怯ませるような強さが宿り、その視線に捉えられて息を飲む。
「成歩堂……龍一?」
怪訝に思って探るような声を上げると、彼はふっと口元を緩めて笑った。
「不用意じゃないとしたら?」
「……?」
「ピアノが聴きたくないならさ……、この前の続きでも、しようか」
「……!!」
どく、と鼓動が音を立てて鳴った。
何を言っているのか、この男は。どうかしている。
それに、自分も。咄嗟に、冗談は止めてくれと頭の中では叫んだのに、それは声にならない。
それどころか、前と同じだ。頭の中が痺れて、上手くものが考えられない。
何だと言うのだろう、この反応は。
自分の頭の中は、この前から可笑しくなったままだ。
でも……。
響也は一度大きく息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出して顔を伏せた。
「だから嫌いなんだよ、あんたは」
言い終えるなり手を上げて、目の前の彼の顎を指先で捕まえる。
先ほど見えた強い光はもう彼の双眸には見当たらず、相変わらずやる気のない視線に見詰められた。
「……じゃあ、止めておくかい」
「まさか……」
言い捨てて、徐に顔を寄せて触れた成歩堂の唇は柔らかくて、ほんの少し、何だか懐かしいような感触がした。
あの時戸惑った行為に歯止めを掛けるものは、今はない。
ほんの少しだけ、躊躇するように手を止めた後。
響也は掴んだパーカーのジッパーを、今度こそ思い切り下へと引いた。
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