その日…。
たまたま用事があって兄の事務所を訪れた響也は、そこで、意外な人物に出会った。
「あんた…成歩堂弁護士さん?」
「…きみは、確か…」
足を進めて近付いた響也に、その人物、成歩堂龍一も少し驚いたように目を見開いた。
「どうして、きみが…」
「それはこっちの台詞なんだけどね…?」
「ああ…牙琉弁護士の弟だったな、きみは…」
「……」
「彼には色々世話になったから、お礼に来たんだけど…。出掛けているみたいだね、牙琉先生は。だから、秘書の人にお願いして待たせて貰っているんだ」
彼の言う通り、成歩堂はゆったりとした上質なソファに腰掛けて完全に寛いでいた。
テーブルの上にはとうの昔に空になったらしいコーヒーカップが一つ。
灰皿は空だ。どうやら煙草は吸わないらしい。
一体、何時間待っているのか知らないが…。
「ふーん…そう。暇なんだね、先輩は」
「…おかげさまでね」
軽い皮肉に、気分を害した様子もなく、成歩堂は顔を伏せて笑みを浮かべた。
既に、秘書の姿はない。
恐らく、仕事が済んだら帰るように言われているんだろう。
「で?兄貴…帰りはいつに?」
「さぁ、それが聞いていないんだ」
(暢気な人だな)
「でも、丁度良かった。あんたに聞きたいことがあるんだ」
すぐに気持ちを切り替えて、響也は成歩堂が腰掛けているソファの肘当ての部分に行儀悪く腰を下した。
「あんたと兄貴、一体どう言う関係なのかな」
「…さぁ、それはこっちが聞きたいよ」
「あの裁判の後のこと…少し聞いているよ。何も関係なければ兄貴があんたを助けたりはしないと思うけど?」
「そう言われても…本当に解からないよ。でも、彼だけが…ぼくを庇ってくれたのは事実だね」
「……」
ゆったりとした口調で話す成歩堂は、何かを隠している様子はない。
ただ、くたびれた青いスーツと、何処か虚ろな目。
目の前の響也のことなど、空気のようにしか思っていないように見える。
それが、何だか少しだけ面白くなかった。
「正直、鍵を開けたまま帰る訳には行かないし、困っていたんだ。きみが来て良かった。ぼくはもう帰るとするよ」
黙り込んだ響也に、これ以上話すことはないと踏んだのか。
成歩堂はそう言いながら立ち上がって背を向けた。
「ちょっと、待てよ!」
咄嗟に、その腕をがしりと捕んで引き寄せる。
「うわっ!?」
軽く引いただけのつもりだったのに。
成歩堂はおおっぴらによろけて、今まで座っていたソファにドサリと倒れこんでしまった。
引いた時の手ごたえのなさ…。
彼はきっと今、心身共にとても弱っているんだろう。
そりゃあ、そうであろう。
弁護士バッジの剥奪。それがどんな意味を持つか…。
(極限状態……ってヤツかな)
間接的にとは言え、その状況を作ったのは…他でもない、響也自身だ。
力なく起き上がろうとする姿を見下ろしながら…次の疑問が、胸の内に湧き上がった。
咄嗟に、彼を逃がさないよう…倒れこんだ体の上に覆い被さって動きを封じると、疲れきったその顔を真っ向から覗き込んだ。
「あのさ…ぼくのこと、恨んでるかい?元ベテラン弁護士さん」
「……?」
突然自由を奪われ、成歩堂は慌てたように小さくもがいたが、質問に答えない限り解放されることはないと悟ったのか。
ややして抵抗を止めて、大人しくソファに体を埋めた。
当然、愚痴の一つでも言われると思っていたのだが。
成歩堂が発した言葉は、響也が予想してもいないことだった。
「そんな色のサングラスなんか掛けてるから…気付かなかったよ」
「は……?」
「かなり…いい目をしているんだね。きみはきっと、もっといい検事さんになる」
「……!」
想像もしていなかった台詞に意表を突かれ、響也は目を大きく見開いた。
まさか、そんなことを言われるとは…全く思っていなかった。
しかも、この男に。
「へぇ…嬉しいこと言ってくれるね、成歩堂弁護士さん」
かなり本音でそう言うと、響也は力なく身を投げ出したままの成歩堂の顎を、そっと指先で捕えた。
くい、と顎が持ち上がって、彼の真っ直ぐな目が響也に向けられる。
疲れきっていて覇気はないが、今の彼だって、本当に曇りのない目をしている。
なのに、どうして?
問い詰める代わりに、響也はずい、と身を寄せた。
「このまま…帰らせるのは、何かもったいないね」
そうして、無抵抗のまま組み敷かれている成歩堂に、軽い口調で囁きかける。
「兄貴も帰って来ないことだし…。ちょっと…暇潰しに悪戯してもいいかい?先輩弁護士さん」
成歩堂の目が困惑で揺れる。
けれど、彼はまだ、響也の行動を本当に子供の悪戯程度にしか思っていないようだった。
「…好きにすればいいよ、”元”だしね」
だから、次の瞬間返って来た投げ遣りな返事に、満足そうに笑みを零す。
「落ち着いてるね、貞操の危機だって言うのに」
「…ぼくは男だからね」
(本当に、何て無防備なんだろう…)
暢気な返事に、一瞬毒気すら抜かれそうになったけれど、それ以上に、彼への興味が響也の中で勝った。
「知ってるかい?男同士でも出来るんだよ、ちゃんとね」
「……!?」
徐に、両方の手首を片手で掴んで、彼の頭上で押え付ける。
流石に驚いたように揺れる表情が何だか可笑しくて、響也は喉の奥で笑いを漏らした。
「ただ、ぼくとしては…あんたにもしっかりその気になってもらわないと」
「っ……!?」
「無理強いは好きじゃないんだ」
首筋に顔を寄せると、びくっと体が引き攣る。
抵抗しようと浮き上がり掛けた腕を体重を掛けて押え付け、響也は滑らかなその場所に唇を寄せた。
「な、なに…を?」
空いている手で、既に解れ掛けているネクタイを引っ張って緩める。
続いて一つ二つとシャツのボタンを外すと、流石の成歩堂もじたばたと暴れだした。
「や、止めろよ…!何やって…」
「何言ってるんだよ、あんたが言ったんだよ、好きにしていいって」
「い、悪戯だって言ったからだろっ?!」
「そう、悪戯だよ。…子供のね」
「…牙琉検事?!」
切羽詰った声が、響也の名前を呼ぶ。
困惑に揺れる目は追い詰められた草食動物みたいに怯えていて、何だか嗜虐心と言うものを呼び起こすような。
フェミニストの響也には、当然男と言えど相手をいたぶるような趣味はないけれど、それでも…。
「いいね、その顔。法廷でも、そんな風にうろたえるあんたの顔が見たかった」
瀬戸際になっても、涼しい眼をして、一切弁解しなかった彼の姿を思い浮かべて、響也は意味ありげな口調で呟いた。
次