「オドロキさん!海に行きましょうよ!」
みぬきが突然そんなことを言い出したのは、鬱陶しい梅雨が明けて、夏が始まったばかりの頃だった。
「え、海?」
急な申し出に首を傾げる王泥喜にお構いなく、みぬきは両目を輝かせて、楽しそうに続けた。
「そうですよ!オドロキさんと、パパと、みぬきと…牙琉検事と!!」
「え…牙琉検事?何で…?」
予期していなかった名前が出て来て、ますます訝しげな顔になると、みぬきはお説教をするときのように腰に両手を当てて、ずい、と乗り出して来た。
「もう…っ!何でじゃないですよ!ガリューウエーブのチケット、二割引きで取ってくれたお礼です!」
「ああ…。でもあれ、金払ったの俺なんだけど」
「いいじゃないですか!みぬきだって、素敵な王子様と夏の思い出が欲しいんです」
(そんなに好きなのかな、牙琉検事のこと…)
確かに、みぬきの気持ちは解からないでもないけれど。
でも、それなら、自分と成歩堂が付いていくことはないんじゃないか。
「牙琉検事と二人で行ってくれば?」
そう思って提案すると、不意に、今まで黙って成り行きを見守っていた成歩堂から、ゆらりと殺気が漂い出した。
「王泥喜くん…そう言う冗談はやめてくれないかな。もしみぬきに何かあったら、きみ、責任取れるのかい?」
「え…いや、は、はい…」
(なるほど、このせいか…)
年頃の娘を持つ親は、だいたいこんな、同じような心境なんだろうか。
大分、いらない心配な気もするけれど…。
(牙琉検事、信用ないんだな…可哀想に)
王泥喜が響也に同情している間に、みぬきはガバっと両手を合わせ、改めてこちらに向き直って来た。
「お願いします!オドロキさん!みぬきたちと一緒に行って下さい!」
「え…。う、うーん…」
行ってもいいのだけど。
何だか厄介ごとにでも巻き込まれそうな気が、しないでもない。
どうしようか…。
まだぐだぐだと悩んでいると、成歩堂が再びだるそうな調子で口を開いた。
「オドロキくん。ぼくも…海行きたいなぁ。何とかならないかい?」
彼の声色には、お願いしようなどと言う意図は全く感じられなかったのだが…。
「あ、はい、勿論!大丈夫です!」
気付いたら、即座に承諾の声を上げていた。
成歩堂の声には、何だか不思議な力でもあるんだろうか。
「もうっ、オドロキさんはパパに甘いんだから!」
「な、何言ってるんだよ、みぬきちゃん…」
頬を膨らませるみぬきをなだめながら、王泥喜は横目でちらりと成歩堂の方を見やった。
(まぁ、たまには…いいかも知れない)
みぬきはともかく、成歩堂と何処かへ出掛けるなんて、滅多にないことだ。
(海か…)
行けば、自分の知らない成歩堂の姿を、見ることが出来るだろうか。
そう思うと、何故だか…子供の頃のように、胸がわくわくするような、ぽうっと温かい火が灯ったような、そんな気持ちになっていた。
そして、当日。
無茶苦茶にはしゃいで、想像していたよりずっと、目が回るほど楽しかったのを覚えてる。
最初から最後まで聞こえていたのは、みぬきのはしゃいだ声と、牙琉検事のちょっとキザな感じの声と、波と風の音。
成歩堂はと言えば、珍しく酒を飲み過ぎたのか、早めに皆から脱落して、砂浜に倒れこむように横になっていた。
彼の周りに散らばった、空になったビールの缶を拾って集めながら、王泥喜はそっと屈んで顔を覗き込んだ。
そして…。
「……オドロキくん」
「……?」
聞き間違いでなければ、そう呼ぶ声が聞こえた。
その後のことは、よく思い出せない。
あれは、何だったんだろう…。
夢でもみたのかも知れない…。
辺りには、少し肌寒い潮の香りがする風と、砂の匂いがしていた。
真っ黒な空にはちらほらと星が浮いているだけ。
だから、確信はない。でも、後で思えば…。
その時が、弁護士として特別だった彼が、王泥喜の中で、もっと他の意味を持つ特別へと変わった瞬間だった。
「パパ、ちゃんとご飯食べてるかな」
「え…?あ、ああ…どうかな」
向かい合っての食事中。
みぬきの呟きに、王泥喜はハッと我に返った。
最近、暇があるとどうしても考えてしまう…。
あの日、皆で海に行ったことは、既に良い思い出になりつつあった。
あれから数週間は過ぎただろうか。
表面上、自分と成歩堂の関係には、何ら変化は見当たらなかった。
変化も何も、成歩堂は相変わらず事務所にあまり顔を出さなかったので、変化しようにもどうしようもなかったのだけど…。
「また極秘任務でしょうか。本当に、極秘もほどほどにして欲しいですね」
「そうだよね…」
みぬきの呟きは尤もで、王泥喜も攣られて、彼女と一緒に溜息を吐いた。
そう言えば…かれこれ、もう2週間ほど顔を見ていない。
それに、どうせ。
(帰って来たって、またすぐいなくなるんだよな)
一体、何をそんなに出歩く必要があるのか。
前にみぬきが、彼のことを野良猫みたいに言っていたけど…。
野良猫の方が、もっとマシだ。
彼はきっと、待ってる方の気持ちなんて、考えたこともないに違いない。
事務的な動きで食事を口に運びながら、そんなことを思い巡らして、王泥喜はぴたりと箸を止めた。
待ってる…?
(俺は…待ってるのか、あの人のこと)
そんなに、会いたいんだろうか。何でだろう。
憧れの人だったのに間違いないし、今も尊敬はしている。
でも、会ったばかりの頃は、そんなことあまり考えなかった。
よく解からないし、自分の感情を分析するのは、結構億劫だ。
何も考えず、楽しいままでいたい。
みぬきは可愛くて明るくて、たまに帰って来るあの人も、何を考えているかは解からないけれど、普段は優しい。
時々…朝目を覚まして隣の部屋に行くと、ソファの上に身を投げ出して、背中を丸めて眠っている姿を、よく見かけた。
「成歩堂さん」
呼び掛けても返事がなくて、少し緊張しながら側に寄って、肩を揺さ振る。
「成歩堂さん、起きて下さいよ!またソファなんかで寝て!」
「…うーん」
小さく唸ったきり、成歩堂に起きる気配はない。
「全く…」
溜息を吐いて、ベッドから運んで来た毛布を掛けてあげると、彼は嬉しそうにそれに包まって、目を閉じたまま唇を開いた。
「ありがとう、オドロキくん」
「い、いえ…」
そんな他愛もないことが、ここ数ヶ月で、数え切れないほど沢山あった。
それは、物凄くドキドキしたり、息が苦しくなるほど刺激的なことではなかったけれど。
心地良くて、何度味わってもいいと思えるものだった。
そんな状況だから、今は、何も変わらなくていい。
そうだ、だから…。
今日も…早く、帰って来てくれないだろうか…。
「成歩堂さん…」
みぬきがショーに出掛けた後。
デスクに突っ伏したままで、王泥喜は小さく彼の名前を呟いた。
やがて、段々と強い眠気が襲って来て、少しずつまどろみの中へと落ちて行った。
その晩は結局、デスクに突っ伏したままで眠ってしまったようだ。
みぬきはまだ帰って来ない。
王泥喜も、何だかんだと疲れが溜まっていたせいか、すっかり熟睡してしまっていた。
どの位時間が過ぎたのだろう。
夜中になって、ふと…遠くの方で自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「オドロキくん」
ああ、この声、成歩堂だ。やっと帰って来たんだ。
でも、残念なことに、何だか瞼が重くて動かない。
「オドロキくん、起きなよ」
反応を返さないでいると、肩がゆっくりと数回揺さ振られた。
ゆらゆらと心地良いだけの刺激。
夢なのか現実なのか、区別がつかない。
きっと、帰ってくればいいと強く思いすぎて、夢でもみてるんだろう。
「風邪引くよ、オドロキくん…」
それからも、夢現の中で、何度も名前を呼ぶあの人の声がした。
優しく掛けられる言葉と、穏やかな声。
それがひどく心地良くて、何だか、いつまでもずっと聞いていたいと思った。
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