翌朝。
目が覚めると、いつの間にかベッドに横になっていた。
そう言えば、成歩堂の声を聞いたような気がしたけれど。
辺りを見回しても、彼の姿はない。
(何だ、やっぱり夢だったのか…)
と言うことは、いつの間にか、自力でベッドに移動したんだろう。
眠い目を擦りながら、王泥喜は顔を洗って隣の部屋に顔を出した。
先に起き出していたみぬきが、こちらに気付いて笑顔を向ける。
「おはようございます!オドロキさん」
「おはよう、みぬきちゃん。あれ、もう学校の時間…?」
「はい、もう少しで夏休みですけどね。じゃあ、行って来ます」
「気を付けて…」
言い掛けて、何かがみぬきから転がり落ちたのに気付いて、言葉を止める。
(ボタンかな…?)
「何か落ちたよ、みぬきちゃん」
「え…?」
床に屈んで転がったものを拾い上げてよく見ると、それは小さな貝殻だった。
みぬきに手渡すと、彼女はパッと顔を輝かせた。
「あ、これ…皆で海に行ったときのですよ!」
「あ、ああ…」
(あの時の…か)
ドキ、と心臓の音が高く鳴ったような気がした。
最近、暇がある度にいつも思い出していたことだ。
数週間前に、皆で行った海…。
と言っても、それぞれバラバラな仕事をしているので、時間なんて合わないから、誰もいない夜の海だった。
買って来た酒を浜辺で飲んで、みぬきが自分だけジュースだって膨れて。
牙琉検事がそれをなだめるのを、成歩堂は何だか優しい顔で見ていた。
自分はと言えば…その成歩堂の方ばかり見ていた気がする。
我ながら、ちょっと不思議だけど…。
そして、散々騒いだ後。
すっかり酔い潰れてしまった成歩堂を介抱するのは、自分の役目だった。
みぬきは牙琉検事に夢中で、珍しくこっちにまで気が回らないらしい。
「成歩堂さん、駄目ですよ!風邪引きます、いくらなんでも」
「うーーん…」
屈み込んで、砂浜に寝転がっている成歩堂の顔を覗き込むと、小さく呻く声が聞えた。
「弱いのに、あんなに飲むから…。もう、しっかりして下さいよ」
「み…ず…」
「はいはい、ちょっと待ってて下さいね」
溜息混じりに返事をして、ペットボトルを掴むと、成歩堂の頭を抱き抱えて、顔だけ起き上がらせた。
その時。確かに、名前を呼ばれたような気がする。
他にも何か言ったのかも知れないけど、風の音が煩くて、それからはしゃいでるみぬきの声に重なって、よく聞えなかった。
続いて、成歩堂の手がこちらに伸びて、ぐい、と引き寄せられ…。
ほんの少しだけど、唇が触れ合った…ように思う。
目が合っていたかどうかは思い出せない。
あれは、なんだったんだろう。
気のせいか、なかったことにされたのか、酔っ払いの戯れ言か。
理由が何であれ、酔っ払っていただけの成歩堂には、何の記憶もないだろうし、何の意味もなさそうだ。
(駄目だ、考えたって仕方ない)
それからも、顔を合わせても彼は何も言わないし。
それに、顔を合わせる機会自体、少ないのだから。
「あ…そう言えば。昨日、パパ少し帰って来たみたいですね」
「え……?」
みぬきの言葉に、王泥喜は顔を上げた。
そうか・・・。じゃあ、あれは、夢ではなかったのか。
彼が、ベッドまで運んでくれたんだろう。
『オドロキくん…』
そう思った途端、昨日の夜の、彼の声を思い出してしまった。
耳元で、何度も繰り返された声。
途端、何故か急にざわざわと胸が騒いだ。
(何だよ、これ…)
もう一度、今すぐにでもあんな風に声を掛けて欲しい。
どうして意味もなく、そんな風に思うのか…。
解かる筈もない。
「じゃあ、行って来ますね、オドロキさん」
「ああ、行ってらっしゃい」
みぬきを笑顔で送り出した後も、何かに追い立てられているように、心に落ち着きがなくなって。
何だか、いても立ってもいられなくなってしまった。
その数日後。
食料の買出しに出た王泥喜は、道端でばったりと牙琉響也に出会った。
「あれ…どうしたんですか?牙琉検事…」
「やぁ、おデコくん、丁度良かった。今きみたちの事務所に行こうと思ってたんだよね」
「え……」
「あのお嬢さんに頼まれてたんだ、これ」
差し出された封筒を受け取って中を覗くと、数枚の写真が見えた。
「何ですか、これ…」
「暗くてよく写ってないけどね、海に行ったときのだよ」
「あ、ああ…」
デジカメなんて持ってきてくれていたのか。
しかも、郵送でも何でもなく、わざわざ持って来てくれるなんて。
「意外と優しいんですね、牙琉検事って」
「失礼だなぁ、ぼくは女の子には平等に優しいよ」
「そ…そうですか」
彼みたいな人種には、こんな気持ちは理解出来ないに違いない。
まずい、何だかちょっと…卑屈になってしまう。
無意識の内に口を尖らせた王泥喜は、ふと、響也がじっとこちらを覗き込んでいることに気付いた。
「な、何ですか?」
「きみさ…」
「……?」
「あの男は…止めておいた方がいいと思うよ」
「……?!」
自分でも何故だか解からないけれど、ドキ!と心臓が鳴って、血の気が引いた。
彼は一体、何を言っているのだろう。
「な、何の話ですか!」
王泥喜が声を荒げると、響也は指を軽く鳴らして、にこやかな笑みを作った。
「そんなに慌てなくてもいいんじゃないか?バレバレだよ、おデコくん」
「え……?」
「成歩堂龍一…。これだけ言えば、解かるよね」
「……!!」
自分が息を飲む音が、はっきりと聞こえた。
何かで殴られたときのように、頭に衝撃が走る。
とぼけてみたり、笑い飛ばしてみようとしたけれど、どれも上手くいかなかった。
多分、自分はみっともなくうろたえて、しどろもどろになって、走って逃げたんだろう。
息を切らせて事務所の扉を開けると、そこには凄いタイミングで、その…成歩堂の姿があった。
「成歩堂さん!帰ってたんですか!?」
「やあ、オドロキくん」
(やばい…)
何だか、顔が見れない。
牙琉検事が変なことを言ったからだ。
(止めておけって…何だよ)
そんなんじゃない。
そんなんじゃない筈だ。
「じゃあ、ぼくはちょっと出掛けるよ」
「え…?あの…もう、ですか?」
「うん」
「…そ、そうですか」
折角帰って来たのに。また、いなくなるのか…。
不満そうに胸中で呟くと、頭の中でさっきの牙琉検事の声が聞えた。
『バレバレだよ…おデコくん』
『成歩堂龍一だろ』
「……!」
(だ、だから…そう言うんじゃなく…!)
自分は、ただ…そう、みぬきのことが心配だから…。
自分の内心の動揺を蹴散らす為、王泥喜は咄嗟に大きな声で彼を呼び止めた。
「あ、あの!」
「……?何だい?」
「その、今日はちゃんと、帰って来て下さいね。みぬきちゃんも、寂しいに決まってますから」
今まで、こんな台詞を口にしたことはない。
不審に思われるかと懸念したけれど、少しの間の後、彼はいつもの調子で口を開いた。
「ああ…。大丈夫だよ、オドロキくん」
「は、はい!」
返って来た答えに、ホッとして胸を撫で下ろす。
良かった。何だか、妙に気恥ずかしいけれど。
最初から、素直にこう言えば良かったんだ。
そう思って、少しだけ安心した。
その日、学校から帰って来たみぬきに、王泥喜は兼ねてから思っていたことを口にしてみた。
「みぬきちゃんは…心配になったこと、ないの?」
「え…?何がですか」
「成歩堂さんが、ちゃんと帰ってくるのかとか。ほら、あの人、あんまり帰って来ないだろ?」
「うーん…」
少し考えて、みぬきは笑顔で顔を上げた。
「ならないですね。だってほら、パパはみぬきが養ってる訳ですから!」
(…そりゃ、そうか)
確かにそれなら安心だけど。
だからって、王泥喜が彼を養う訳には行かない。
それじゃ、本当にヒモだ。
バカげている、こんなこと考えるなんて。
ここにに来たばかりの時は、とにかく又誰かの弁護を出来るのが嬉しくて、みぬきと一緒にいるのが楽しくて。
それから、憧れだったあの人の側にいることが嬉しい反面、彼のあんな姿を見ているのは複雑で。
ただ、それだけだった。
ついこの前までは、こんなこと、どうでも良いことだったのに。
(俺って一体、何なんだろう…)
頬杖を突きながら、胸中に浮かび上がった思いに、苦い溜息が漏れた。
「じゃあ、みぬき、仕事行って来ますね」
「ああ、頑張ってね」
「はい!」
みぬきがビビルバーに出勤して、事務所に一人きりになると、辺りは急に静かになったような気がする。
夕飯の片付けを済ませて、マジックの小物の上の埃を掃うと、ドサッとソファに腰を下して、王泥喜は何気なく時計を見た。
気まぐれなあの人は、ちゃんと帰って来るだろうか。
でも、別れ際に言ったから…。
だから、何も心配することはない。はず…なのに。
この、漠然とした不安はなんだろう。
デスクの上で頬杖を突いて、王泥喜は窓の外の街をぼうっと眺めた。
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