Pathos2




翌朝。
目が覚めると、いつの間にかベッドに横になっていた。
そう言えば、成歩堂の声を聞いたような気がしたけれど。
辺りを見回しても、彼の姿はない。

(何だ、やっぱり夢だったのか…)

と言うことは、いつの間にか、自力でベッドに移動したんだろう。
眠い目を擦りながら、王泥喜は顔を洗って隣の部屋に顔を出した。
先に起き出していたみぬきが、こちらに気付いて笑顔を向ける。

「おはようございます!オドロキさん」
「おはよう、みぬきちゃん。あれ、もう学校の時間…?」
「はい、もう少しで夏休みですけどね。じゃあ、行って来ます」
「気を付けて…」

言い掛けて、何かがみぬきから転がり落ちたのに気付いて、言葉を止める。

(ボタンかな…?)

「何か落ちたよ、みぬきちゃん」
「え…?」

床に屈んで転がったものを拾い上げてよく見ると、それは小さな貝殻だった。
みぬきに手渡すと、彼女はパッと顔を輝かせた。

「あ、これ…皆で海に行ったときのですよ!」
「あ、ああ…」

(あの時の…か)

ドキ、と心臓の音が高く鳴ったような気がした。
最近、暇がある度にいつも思い出していたことだ。
数週間前に、皆で行った海…。
と言っても、それぞれバラバラな仕事をしているので、時間なんて合わないから、誰もいない夜の海だった。
買って来た酒を浜辺で飲んで、みぬきが自分だけジュースだって膨れて。
牙琉検事がそれをなだめるのを、成歩堂は何だか優しい顔で見ていた。
自分はと言えば…その成歩堂の方ばかり見ていた気がする。
我ながら、ちょっと不思議だけど…。
そして、散々騒いだ後。
すっかり酔い潰れてしまった成歩堂を介抱するのは、自分の役目だった。
みぬきは牙琉検事に夢中で、珍しくこっちにまで気が回らないらしい。

「成歩堂さん、駄目ですよ!風邪引きます、いくらなんでも」
「うーーん…」

屈み込んで、砂浜に寝転がっている成歩堂の顔を覗き込むと、小さく呻く声が聞えた。

「弱いのに、あんなに飲むから…。もう、しっかりして下さいよ」
「み…ず…」
「はいはい、ちょっと待ってて下さいね」

溜息混じりに返事をして、ペットボトルを掴むと、成歩堂の頭を抱き抱えて、顔だけ起き上がらせた。
その時。確かに、名前を呼ばれたような気がする。
他にも何か言ったのかも知れないけど、風の音が煩くて、それからはしゃいでるみぬきの声に重なって、よく聞えなかった。
続いて、成歩堂の手がこちらに伸びて、ぐい、と引き寄せられ…。
ほんの少しだけど、唇が触れ合った…ように思う。
目が合っていたかどうかは思い出せない。
あれは、なんだったんだろう。
気のせいか、なかったことにされたのか、酔っ払いの戯れ言か。
理由が何であれ、酔っ払っていただけの成歩堂には、何の記憶もないだろうし、何の意味もなさそうだ。

(駄目だ、考えたって仕方ない)

それからも、顔を合わせても彼は何も言わないし。
それに、顔を合わせる機会自体、少ないのだから。



「あ…そう言えば。昨日、パパ少し帰って来たみたいですね」
「え……?」

みぬきの言葉に、王泥喜は顔を上げた。
そうか・・・。じゃあ、あれは、夢ではなかったのか。
彼が、ベッドまで運んでくれたんだろう。

『オドロキくん…』

そう思った途端、昨日の夜の、彼の声を思い出してしまった。
耳元で、何度も繰り返された声。
途端、何故か急にざわざわと胸が騒いだ。

(何だよ、これ…)

もう一度、今すぐにでもあんな風に声を掛けて欲しい。
どうして意味もなく、そんな風に思うのか…。
解かる筈もない。

「じゃあ、行って来ますね、オドロキさん」
「ああ、行ってらっしゃい」

みぬきを笑顔で送り出した後も、何かに追い立てられているように、心に落ち着きがなくなって。
何だか、いても立ってもいられなくなってしまった。



その数日後。
食料の買出しに出た王泥喜は、道端でばったりと牙琉響也に出会った。

「あれ…どうしたんですか?牙琉検事…」
「やぁ、おデコくん、丁度良かった。今きみたちの事務所に行こうと思ってたんだよね」
「え……」
「あのお嬢さんに頼まれてたんだ、これ」

差し出された封筒を受け取って中を覗くと、数枚の写真が見えた。

「何ですか、これ…」
「暗くてよく写ってないけどね、海に行ったときのだよ」
「あ、ああ…」

デジカメなんて持ってきてくれていたのか。
しかも、郵送でも何でもなく、わざわざ持って来てくれるなんて。

「意外と優しいんですね、牙琉検事って」
「失礼だなぁ、ぼくは女の子には平等に優しいよ」
「そ…そうですか」

彼みたいな人種には、こんな気持ちは理解出来ないに違いない。
まずい、何だかちょっと…卑屈になってしまう。
無意識の内に口を尖らせた王泥喜は、ふと、響也がじっとこちらを覗き込んでいることに気付いた。

「な、何ですか?」
「きみさ…」
「……?」
「あの男は…止めておいた方がいいと思うよ」
「……?!」

自分でも何故だか解からないけれど、ドキ!と心臓が鳴って、血の気が引いた。
彼は一体、何を言っているのだろう。

「な、何の話ですか!」

王泥喜が声を荒げると、響也は指を軽く鳴らして、にこやかな笑みを作った。

「そんなに慌てなくてもいいんじゃないか?バレバレだよ、おデコくん」
「え……?」
「成歩堂龍一…。これだけ言えば、解かるよね」
「……!!」

自分が息を飲む音が、はっきりと聞こえた。
何かで殴られたときのように、頭に衝撃が走る。
とぼけてみたり、笑い飛ばしてみようとしたけれど、どれも上手くいかなかった。
多分、自分はみっともなくうろたえて、しどろもどろになって、走って逃げたんだろう。
息を切らせて事務所の扉を開けると、そこには凄いタイミングで、その…成歩堂の姿があった。

「成歩堂さん!帰ってたんですか!?」
「やあ、オドロキくん」

(やばい…)

何だか、顔が見れない。
牙琉検事が変なことを言ったからだ。

(止めておけって…何だよ)

そんなんじゃない。
そんなんじゃない筈だ。

「じゃあ、ぼくはちょっと出掛けるよ」
「え…?あの…もう、ですか?」
「うん」
「…そ、そうですか」

折角帰って来たのに。また、いなくなるのか…。
不満そうに胸中で呟くと、頭の中でさっきの牙琉検事の声が聞えた。

『バレバレだよ…おデコくん』
『成歩堂龍一だろ』

「……!」

(だ、だから…そう言うんじゃなく…!)

自分は、ただ…そう、みぬきのことが心配だから…。
自分の内心の動揺を蹴散らす為、王泥喜は咄嗟に大きな声で彼を呼び止めた。

「あ、あの!」
「……?何だい?」
「その、今日はちゃんと、帰って来て下さいね。みぬきちゃんも、寂しいに決まってますから」

今まで、こんな台詞を口にしたことはない。
不審に思われるかと懸念したけれど、少しの間の後、彼はいつもの調子で口を開いた。

「ああ…。大丈夫だよ、オドロキくん」
「は、はい!」

返って来た答えに、ホッとして胸を撫で下ろす。
良かった。何だか、妙に気恥ずかしいけれど。
最初から、素直にこう言えば良かったんだ。
そう思って、少しだけ安心した。



その日、学校から帰って来たみぬきに、王泥喜は兼ねてから思っていたことを口にしてみた。

「みぬきちゃんは…心配になったこと、ないの?」
「え…?何がですか」
「成歩堂さんが、ちゃんと帰ってくるのかとか。ほら、あの人、あんまり帰って来ないだろ?」
「うーん…」

少し考えて、みぬきは笑顔で顔を上げた。

「ならないですね。だってほら、パパはみぬきが養ってる訳ですから!」

(…そりゃ、そうか)

確かにそれなら安心だけど。
だからって、王泥喜が彼を養う訳には行かない。
それじゃ、本当にヒモだ。
バカげている、こんなこと考えるなんて。
ここにに来たばかりの時は、とにかく又誰かの弁護を出来るのが嬉しくて、みぬきと一緒にいるのが楽しくて。
それから、憧れだったあの人の側にいることが嬉しい反面、彼のあんな姿を見ているのは複雑で。
ただ、それだけだった。
ついこの前までは、こんなこと、どうでも良いことだったのに。

(俺って一体、何なんだろう…)

頬杖を突きながら、胸中に浮かび上がった思いに、苦い溜息が漏れた。



「じゃあ、みぬき、仕事行って来ますね」
「ああ、頑張ってね」
「はい!」

みぬきがビビルバーに出勤して、事務所に一人きりになると、辺りは急に静かになったような気がする。
夕飯の片付けを済ませて、マジックの小物の上の埃を掃うと、ドサッとソファに腰を下して、王泥喜は何気なく時計を見た。
気まぐれなあの人は、ちゃんと帰って来るだろうか。
でも、別れ際に言ったから…。
だから、何も心配することはない。はず…なのに。
この、漠然とした不安はなんだろう。
デスクの上で頬杖を突いて、王泥喜は窓の外の街をぼうっと眺めた。



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