みぬきが出掛けてから、暫く時間が過ぎたところで、不意に携帯電話の着信音が鳴った。
電話を手に取ると、「成歩堂みぬき」の文字が目に入る。
王泥喜は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし、みぬきちゃん!どうしたの?」
『あ、オドロキさん!ごめんなさい。実は…みぬき…大事なものを事務所に忘れて来てしまったんです。でも戻ってる時間がなくて…』
「ああ、そうなんだ。届けてあげようか」
『ありがとうございます!お願いします、オドロキさん!』
「で、どれ…?」
『デスクの上にあると思います。あの、貝殻ですよ』
言われた通り、デスクの上を探すと、あの時みぬきの掌に渡した小さな貝殻が置いてあった。
「あったよ、じゃあ、今から行くから」
『ありがとうございます、オドロキさん!』
通話を終えると同時に、ネクタイを締め直して、事務所を飛び出した。
もう、日は暮れて、辺りは大分薄暗い。
ビビルバーまでの道を小走りで急ぎながら、王泥喜は掌に握り締めたものに目をやった。
(貝殻か…)
あの子はこんなもの、何に使うんだろう。
パンツ芸で貝殻でも出してみせるのか?
まぁ、何でもいいけど。
それにしても。
(大事なもの…か…)
大事なものは、こうして、いつでも手の中に握り締めておけたらいいのに。
何気なくそんなことを思うと…何故か、ズキ、と胸の奥が痛んだ。
無事彼女に貝殻を届けた後、ついでにショーを一つだけ観て。
王泥喜は先ほど通った夜の道を引き返して、今度は成歩堂事務所へと向かっていた。
行きと違って、急ぐ必要もない。
辺りはずっと飲み屋が立ち並んでいて、ちかちかと光るライトが眩しい。
人も大分増えて来た。
(結構…物騒な感じの場所だな)
きょろきょろしながら歩いていると、背後からよく知った人物の声が掛かった。
「あれ…?おデコくんじゃないか」
振り向くと、じゃらじゃらと言う金属の音と一緒に、こちらに歩み寄って来る人影が見えた。
もう、大分おなじみになっている顔だ。
「牙琉検事じゃないですか。何だか今日はよく会いますね。何してるんですか?」
「ぼくはデートの待ち合わせだよ。きみの方こそ、何を?危ないんじゃないかな、子供が一人でこんなとこを…」
「お、俺は一応成人してますよ!それに、みぬきちゃんの…ビビルバーに寄った帰りなだけです…!」
「ふぅん…、そうかい。ああ…お嬢さんと言えばさ…」
「……?」
「……」
「…牙琉検事?」
そこで、彼は失言でもしたと言うように、口を噤んだ。
何事もなかったように振舞おうとしているけれど、自分の目は誤魔化せない。
「何ですか、みぬきちゃんがどうしました?」
「いや、何でもないよ・・・」
「何ですか!教えて下さい!!」
王泥喜は、ムキになって響也に詰め寄ると、彼の襟元をぐいぐい締め上げた。
「ちょっと、苦しいよ…離してくれないか?」
「離すのは、あなたが話してからです!」
「わ、解かった。は、話すよ…」
あくまでとぼけることを許さない態度に、根負けしたようだ。
ようやく王泥喜が手を離すと、彼は乱れた襟元を整えて、こほんと一つ咳払いをした。
「ええと、その…。実はさ、お嬢さんで思い出したんだけど…」
「はい」
「さっき…見たんだよね」
「……?」
「成歩堂龍一だよ」
「え……?!」
「そっちの…その、ホテル街でさ、男と一緒に…」
(……?!)
「……え」
「見間違いかも知れないと思ったけどね…中に入って行くのを、確かに見たよ」
(う、嘘だ…!)
牙琉検事の言葉を聞き終えない内に、酷い耳鳴りがした。
何か言おうとしたけれど、声にならなかった。
あっと言う間に、目の前が真っ暗になってしまったような気がした。
そこから、何処をどうして帰って来たのか、全然覚えていない。
足元がふらついて、雨に濡れた地面を踏んだときのように、靴底に当たる感触がぐちゃぐちゃに歪んで。
気が付いたら、事務所のソファに体を投げ出すように座っていた。
これって、もしかして…。
いや、もしかしなくても、自分は相当落ち込んでいる。
成歩堂が、他の誰かと…よりに寄って男と…?
でも、それじゃない。
相手が男だったとか、そう言うことじゃなくて、もっと別のことにショックを受けていた。
『成歩堂龍一だよ。これだけ言えば、解かるよね?』
この前、牙琉検事に言われた言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
(そうか、俺…あの人が好きなんだな)
考えてみれば簡単なことだ。
だから、あんなにドキドキしたり、無駄に悩んだりしたんだ。
でも、だからって、それが何だと言うのだろう。
自分には、責める資格も何もない。
それどころか、成歩堂のことなんて、何も知らない。
でも…。
『ちゃんと帰って来て下さいよ』
『大丈夫だよ、オドロキくん』
大丈夫だよ、そう、言ったくせに…。
そう言って、笑っていたくせに。
薄暗い部屋の中で思い浮かべた彼の笑顔は、微かに浮かんだだけで、王泥喜の手が届かないうちに、すぐに消えてしまった。
どのくらい、そこにそうしていたのだろう。
突然、ガチャ、と言う音がして、王泥喜は我に返った。
「ただいま」
「……?!」
「どうしたんだい?電気もつけないで」
「な、成歩堂さん…」
顔を上げると、間違いなく彼、成歩堂が立っていた。
帰って…来た?
牙琉検事の見たのは見間違いだったんだろうか。
そりゃ、そうだ。幾らなんでも、成歩堂が…そんなこと。
「すみません・・・。こんなすぐ、帰って来るとは思わなくて…」
「…ぼくが帰って来ちゃまずいのかな?」
「そんなこと…!!」
そんなことない!
そう叫ぼうと、成歩堂に向き直って、王泥喜はぎくりとした。
薄暗くて、今まで気付かなかったけど。
水色のニット帽から少し覗いた、彼の髪の毛が…。
気のせいでなければ、濡れている。
肩に幾つか雫が滴り落ちていて、パーカーにも染みを作っている。
雨が降った訳でもないのに。
どうして…。
そうだ、まるで、シャワーでも浴びたみたいに。
「…っ!!」
王泥喜は口を噤み、成歩堂から慌てて視線を逸らした。
どくどくと、心臓の音が早くなって行くのが解かる。
「そんなこと…言ってませんよ。あなたこそ、何処へ行ってたんですか?」
緊張と興奮で声が渇く。
平静を装おうとして、逆に上ずった声が出てしまった。
「ああ、ちょっとね、友人に会っていたんだ」
(友人……)
そんな筈ない。
ただの友人と、ホテルに行ったりする筈ない。
「…オドロキくん?どうかしたの」
「ど、どうもしませんよ」
「そうかな?嘘をついても解るよ」
「……!」
動揺を誤魔化すことが出来ないのは、最初から解かっていた。
けれど。
成歩堂の台詞が耳に飛び込んだ途端、王泥喜の表情はみるみる凍り付いた。
今の、彼の言葉。
(嘘……?)
嘘だって?
「それは…」
一段と、心臓の音が大きくなるのが聞こえた。
目の奥が熱くなって、頭の中が沸騰したような気がした。
「それは、あなたじゃないですか!!!」
「……?!」
声を張り上げた直後。
王泥喜は腕を伸ばして、成歩堂の襟首を強引に引っ掴んだ。
成歩堂が首から下げているロケットが引っ掛かって、指先が擦り切れるのにもお構いなく。
ガツ!と音を立てて、勢い良く壁に押し付ける。
「……ッ」
そうして、衝撃に小さく声を上げた唇を、王泥喜は無我夢中で塞いだ。
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