リアライズ2




 重い足を進めて、事務所の前に差し掛かったとき。
 中からタイミング良く出て来た人影に、王泥喜はハッとした。咄嗟に、側にあった電柱の影に身を隠す。
「……!!」
(あ、あれは……!)
 まさか、と思ってたいたけれど。
 たった今事務所から出て来た人影に、王泥喜は両の目を大きく見開いた。
(が、牙琉、検事……)
 やっぱり。やっぱり、朝まで事務所にいたんだ。こんな時間まで。
 どきどきと、心臓の音が少しずつ早くなるのが解かる。
 響也は息を飲む王泥喜に気付く様子もなく、そのまま遠ざかって行ってしまった。その背中を見送って、王泥喜の頭の中は真っ白になってしまった。続いて、胸焼けするような不快感まで込み上げる。
 そうして、呆然としたまま、王泥喜はふらふらと誘われるように事務所の中へと足を進めていた。
 よろよろとおぼつかない足取りで、扉を潜って中へと進む。
 部屋の中は薄暗くて、何だか、初めて入る知らない部屋のようだ。
 その上、肌に纏わりつく生温かい空気は、ここに一晩中二人分の温度があったことを思わせ、すうっと体が強張った。
「成歩堂、さん?」
 試しに、そう小さく呼び掛けてみたが、応答はなかった。
 奥の部屋まで足を進めると、大きめのソファの上に、成歩堂は身を投げ出して眠っていた。すやすやと心地良さそうな寝息が聞こえて、起きる気配はない。
 もう少し、側で。そんなことを思いながら、足を進めてみる。
 途端、いきなり剥き出しの背中が見えて、どきりと心臓が高鳴った。
 成歩堂はソファにうつ伏せるように背中を丸めて眠っている。
 でも、何で。何でパーカーを着ていないんだろう。
 代わりに、申し訳程度に毛布が羽織らされている。
(なん、で……)
 もっと近くで見ようと思い、王泥喜はそっとソファに片膝をついた。
 彼が目を開けてもすぐには気付かれないように、背後から覗き込む。
 けれど、十分慎重にしていたつもりだったのに、焦る気持ちが災いしたのか、ぎしっとソファが軋んでしまった。
(あっ……!!)
「……ん?」
 流石に、気付いたのか、成歩堂がソファの上で身じろぐ。
 不味い。今彼が目覚めたら、何て言ったら…!
 王泥喜が青褪めておデコにまで汗を浮かべていると、どこか呆けたような成歩堂の声がした。
「ん、牙琉検事?」
「……っ!!」
 どき!と、今までで一番鼓動が跳ね上がった。
 同時に、もやもやと嫌な気持ちが喉の奥から込み上げて、王泥喜を酷く不快にさせる。
「もう、ちょっと、寝かせてくれないかな」
 それだけ言って、成歩堂はこちらの顔を確認することもせず、起き上がろうとしていた体を再びソファに預けた。そうして、すぐに気持ち良さそうな寝息が聞こえる。
(成歩堂さん……)
 その様子にホッと胸を撫で下ろしたけれど、同時に何だか憮然としてしまった。
 何と言うか。物凄く、面白くない。
 何なんだ、その、気の抜けたような声は。
 そりゃ、寝惚けているみたいだし、仕方ないのかも知れない。
 でも、どうして響也と朝まで一緒にいたりして、そんな、気を許しているような台詞まで吐いて。
 無性に悔しくなって、王泥喜はぎゅっと唇を噛んだ。そうして、ずっと自分の中に渦巻いていたものがなんなのか、はっきりと解かった。こんなに不穏になる理由なんて、一つしかない。多分、嫉妬、みたいなもの。ちりちりと胸を妬くこの不快さは、嫉妬だ。
 それに、一体何をしていたんだろう。こんな、無防備な格好で。
 手を伸ばせば、彼の肌にすぐ触れられる距離だ。響也も、こうして、触ったり、したんだろうか?
 王泥喜は背後から圧し掛かったまま、ゆっくりと指先を伸ばして、つい、とその背中をなぞった。
 肌の上を滑る指先に合わせて、ぴく、と小さな反応がある。普段は絶対、こんなとこ見せないくせに。
 でも、今は。
 今は、自分のことを響也だと思っているからか、だから、こんな姿を見せるのか。
 何かに引かれるように、王泥喜は顔を寄せて、成歩堂の背中に浮き出た肩甲骨にそっと唇を寄せた。
「っ、――ん?」
 途端、さっき指先でなぞったよりも大きな反応があって、彼が流石に目を覚ます気配がする。
 でも、今度は動揺したりしなかった。構わずに、唇を寄せたそこに強く吸い付く。
「……ぁ、牙琉、検事?」
 成歩堂の、意外そうな声が聞こえた。何が起きているのか全然解かっていない、無垢な声。
 耳元に聞こえたその声に知らないフリで、更にそこに歯を立てると、ひゅうっと小さく息を飲む音がした。
「何、して……、ん……っ」
 完全に覚醒したらしい成歩堂が驚きの声を上げたが、同時に唇からは甘いような吐息が漏れ、滑らかな背中が強張る。
 その様子に、こんな状況だと言うのに、王泥喜の鼓動はどくどくと高まった。
こんな声も、出せるんだ。この人は。
 いつも、響也には聞かせているんだろうか。
 もし、王泥喜が相手なら、今すぐにでもこの腕の中から擦り抜けてしまいそうなのに。曖昧な言葉と気だるい視線で、全て誤魔化してしまう人なのに。
 でも、相手が王泥喜ではなく、響也だったら?もっと違う顔を見せるのだろうか。
 好奇心と欲求と、罪悪感。
 前者の方が遥かに勝る。
「……っ!?」
 するりと足をなぞると、びく、と背中が引き攣るように仰け反った。
 振り向こうとする顔に気付き、咄嗟に手を伸ばして、頭を押え付けて柔らかいソファに沈める。
「んん……っ」
 くぐもった声を上げながらも、成歩堂は本気で抵抗しようとしなかった。
 きっとそれは、相手が自分じゃなくて、牙琉検事だから。
 それが、ますます王泥喜の頭の奥を熱くさせた。