パン!パン!
辺りに響き渡った、容赦ない往復ビンタの音。
「あんたなんか……最低!!」
続いて浴びせられた怒号に、矢張は、たった今張られたばかりの頬を押さえて、悲痛な叫びを上げた。
「ま、待ってくれよ、エミコ!違うんだって!」
ビンタの反動でバランスを崩して地面に転がりつつも、何とか彼女を引き止めようと努める。
が、必死に追い縋る顔面に、とどめとばかりにパンプスのつま先がヒットして、矢張はそのまま地面に突っ伏してしまった。
「うう……。女なんか、女なんか……」
まだ残る痛みに涙目になりながら、矢張は赤く腫れ上がった両頬を掌でさすった。
マキコ、コズエ、エミコ。
これで今月、3人目だ。切な過ぎる。
成歩堂に言わせれば、一ヶ月で3人もの女の子とそう言う関係にまで漕ぎ着けること自体、かなり凄いそうだが。
成歩堂と言えば……。
そう、あのオトコ。本当は解かっている。
彼のせいなのだ、全て。
さっきのビンタは効いた。
でも、あのビンタのお陰で目が覚めたような気がする。
今まで、自分の心をわざと閉ざして、知らないフリをしていただけなのだ。
実は最近、あることが、矢張をとてつもなく悩ませていた。
それは……。
「お前、矢張じゃないか、何やってるんだよ」
「う……わぁぁぁ?!!」
「わぁっ!な、何だよ!びっくりするじゃないか!」
「それはこっちの台詞だ!成歩堂!」
目の前に、全ての元凶となる男が、冴えない顔をして立っていた。
そして、矢張の赤くなった頬を見て、首を傾げる。
「お前、どうしたんだ?その顔」
「ああ、エミコのビンタ、骨身に染みちゃったぜ!」
「また……かよ」
成歩堂は、あからさまに呆れたような顔でこちらを見る。
「お前、そんな目で見るなよ!俺が何か惨めみたいじゃないか!!」
「十分惨めだよ……。まぁ、とにかく事務所に来いよ。冷やすくらいしか出来ないけど」
「成歩堂ぉ〜……」
うるうると両目に感激の涙を浮かべながら、矢張は成歩堂の好意に従って、彼の事務所へ上がりこむことにした。
「あ……!お帰り!なるほどくん!」
「ただいま、真宵ちゃん」
「あれ?ヤッパリさんも一緒だったんですか?」
事務所に着くと、笑顔で成歩堂を出迎えた真宵が、こちらに気付いてにこりと笑った。
その笑顔、最高に可愛い。
「よぉ、久し振りだな、真宵ちゃん。相変わらず、可愛いなぁ……何て言うか、可憐で清楚で春の川のように清らかだよなぁ……」
「ありがとうございます!ヤッパリさんも相変わらず、ワケ解かんないですね」
そう言って、真宵は又してもにっこりと笑い掛けてくれた。
胸にきゅんと来るような、愛くるしい笑顔。
それが、2度も矢張に向けられた。
それなのに……。それなのに、どうしてなんだ?!
何で自分は、先ほどから成歩堂の姿ばかり目で追っているんだろう!?
もう見慣れたはずの彼の顔が、何だかいつもと違って見え出したのは、いつからだっただろう。
そして、彼を前にすると、無性に落ち着かないのだ。
成歩堂龍一、どうして、彼なんかに?
自分には大分劣るが、いい奴だなんてことは、百も承知だ。
でも、そうじゃない。それだけじゃなくて。
「ほら、矢張。これで冷やせって」
「あ、ああ」
濡れたタオルを受け取るときに、少しだけ手が触れて、そこから伝わって来た成歩堂の体温にどきりとした。
そのまま、手を握り締めたくなるような衝動。
(これって、可笑しい……よなぁ?)
でも、問題はそれだけじゃない。
手を握れば済むなら、それで話は解決だ。
その場で多少白い目で見られるだろうが、それだけだ。
でも、自分で解かってしまうのが悲しい。
手を握ったら、次は抱き締めたくなるに決まっている。
信じられるだろうか。男の、こいつを。
そうして、抱き締めたら、今度は……。
「矢張……?」
「うわっ!?!」
「何だ、どうしたんだよ、さっきから」
過剰な反応をする矢張に、成歩堂は怪訝そうな顔を向けた。
「まぁ、愚痴くらいだったら聞くから、あんまり落ち込むなよ」
ポンと肩を叩かれて、矢張はぐっと息を詰めた。
(……愚痴なんて、お前に言えるかよ!)
成歩堂……。お前に、触りたくて触りたくて仕方ないだなんてこと。
それから、そんな風に自分を気遣う言葉を吐く、彼の唇。
それを思い切り良く奪って、舌を入れて吸い付いて、何処でもいいからその辺に押し倒して……。
邪魔な服なんかはさっさと脱がせて、そうして……。
そうして……?
その先を考えて、矢張はぶんぶんと首を振った。
こんなことを考えてしまう自分は、本当にどうかしている。
実は、成歩堂は女だった!!とかだったら……。
悩むことなく行動に出れるんだけど。
ちょっと、確かめてみるか。
矢張は何の前触れもなく手を伸ばして、成歩堂の引き締まった腰をぐい、と側に引き寄せた。
そして、そこから、つつ……と下の方へ向かって撫でてみる。
「うわっ!?」
当然、成歩堂は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
矢張の方は、悲痛な呻きを上げたくなった。
「男だよなぁ……そうよなぁ……」
「お、お前!どこ触ってんだよ!!」
「なるほどくん、痴漢に遭っちゃったねぇ」
「……っ!離せよ!腫れ引いたなら、もう帰れ!」
真宵にからかわれたからか、成歩堂はカァッと真っ赤になって、矢張の手を振り払って怒鳴った。
これ以上いても、虚しいだけだ。
「ああ、解かってるって。仕事の途中だったしな、俺ってば……」
「お前、クビになるぞ……」
背中に呆れたような成歩堂の声を浴びながら、矢張はとぼとぼと成歩堂法律事務所を後にした。
「はぁ……」
一人になって、矢張は深い溜息を漏らしていた。
あいつに、触るんじゃなかった。
男だって実感したからじゃなく。
服越しでも伝わって来た、成歩堂の体の温かさとか、撫でたときの腰のラインとか、彼の感触が手にしっかり残ってしまった。
今夜は、胸が騒いで眠れないかも知れない。
とにかく、今日はっきりした。
やっぱり、全部あのオトコのせいだ。
何でこんな気持ちになるのかは、さっぱり解らない。
けど、このままじゃ、いつまで経っても、恋の一つも出来ない。
仕事だって手につかない。
このままでいいのか、矢張政志。
「良い訳、ないよなぁ……」
だったら、どうすべきか?そうだ、ここは一つ……。
成歩堂と……ズヴァリ!!一発、ヤるしかない!!!
もう、それしかないではないか!
何をどう間違ったのか。
矢張はそんなとんでもない結論を頭の中で弾き出して、一人満足気に頷いた。
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